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装幀を村上自身が手がけ、金色の帯に「100パーセントの恋愛小説」と書かれた赤と緑のカバーは話題となった。 2003年に講談社から出版された『ノルウェイの森 村上春樹全作品1979?1989 6』には『100パーセント・リアリズムへの挑戦「自作を語る」』という副書が添えられている。
単行本の発行部数は、上巻が238万部、下巻が211万部の計449万部。単行本・文庫本等を含めた日本における発行部数は2008年時点で計878万部[1]。村上人気が高い中国でも100万部以上が出版された[2]。上巻は、片山恭一の『世界の中心で、愛をさけぶ』に抜かれるまで、日本における小説単行本の発行部数歴代1位であった。『世界の中心で、愛をさけぶ』が映画化やドラマ化などの他のメディアによる相乗効果の結果としてベストセラーになったのに対して、この作品はそういう相乗効果とは全く無縁であったのにもかかわらずベストセラーとなった。
『遠い太鼓』の中で、作品が売れ始めた頃は嬉しかったが、それが自分には想像不可能な人の数になるにつれて、むしろ自分は憎まれているような孤独を感じたと綴っている。
『破戒』(はかい)は、島崎藤村の長編小説。1905(明治38)年、小諸時代の最後に本作を起稿。翌年3月、緑陰叢書の第1編として自費出版。
被差別部落出身の小学校教師がその出生に苦しみ、ついに告白するまでを描く。藤村が小説に転向した最初の作品で、日本自然主義文学の先陣を切った。夏目漱石は、『破戒』を「明治の小説としては後世に伝ふべき名篇也」(森田草平宛て書簡)と評価した。
明治後期、被差別部落に生まれた主人公・瀬川丑松は、その生い立ちと身分を隠して生きよ、と父より戒めを受けて育った。その戒めを頑なに守り成人し、小学校教員となった丑松であったが、同じく被差別部落に生まれた解放運動家、猪子蓮太郎をひた隠しに慕うようになる。丑松は、猪子にならば自らの出生を打ち明けたいと思い、口まで出掛かかることもあるが、その思いは揺れ、日々は過ぎる。やがて学校で丑松が被差別部落出身であるとの噂が流れ、更に猪子が壮絶な死を遂げる。
その衝撃の激しさによってか、同僚などの猜疑によってか、丑松は追い詰められ、遂に父の戒めを破りその素性を打ち明けてしまう。そして丑松はアメリカのテキサスへと旅立ってゆく。
他の作品への影響
この作品(特に丑松が生徒に素性を打ち明ける場面)は、住井すゑの『橋のない川』でも取り上げられ、誠太郎をはじめとする登場人物の間で話題に上っている。この中で誠太郎は、丑松が素性を打ち明ける際、教壇に跪いて生徒に詫びていることを批判的に捉えている。『橋のない川』も『破戒』同様、部落差別を扱った作品であるが、両者の差別に対する考え方あるいはスタンスは正反対と言ってよいほどに異なる。
事実、現在の差別問題に関する認識、見解、解放運動のベクトルは様々で、この問題のある一定以上の捉え方は非常に難しいものである。問題の性質が性質なだけに、腫れ物を触る行為になりかねないのがこの問題の理解を深めるにあたり障壁になる部分であるともいえる。
出版史
自費出版されたこの作品は、1913年4月、高額(当時の2000円)で新潮社が買い取り出版した。次に出版されたのは1922年2月で、『藤村全集』第3巻(藤村全集刊行会)に収録された。藤村は巻末に「可精しく訂正」したとしているが、実際には多少の語句の入れ替えを行ったのみであった。
1929年には、『現代長編小説全集』第6巻(新潮社)の「島崎藤村篇」で「破戒」が収録された。ここにおいては、藤村はこの作品を「過去の物語」としている。これは当時、全国水平社が部落解放運動を展開し、包茎
的な言動を廃絶しようとする動きがあったことを意識している。これも一部の組織から圧せられて、やがて絶版になったという。水平社は後に言論の圧迫を批判し、『破戒』に対しても「進歩的啓発の効果」があげられるとし、評価している。そして1938年に、「『破戒』の再版の支持」を採択した。
こうして翌年『定本藤村文庫』第10篇に「破戒」が収録されたが、藤村はその際に一部差別語などを言い換えたり、削除している。これを部落解放全国委員会が、呼び方を変えても差別は変わらないとして批判した。1953年、『現代日本文学全集』第8巻(筑摩書房)の「島崎藤村集」に、初版を底本にした「破戒」が収録された。委員会は、筑摩書房の部落問題に悩む人々への配慮のなさを指摘し、声明文を発表した。1954年に刊行された新潮文庫版『破戒』も、1971年の第59刷から初版本を底本に変更している。
『歯車』(はぐるま)は芥川龍之介の小説。
芥川は1927年服毒自殺を図るが、生前に第一章が雑誌「大調和」に発表され、 残りは遺稿として発見された。河童、或阿呆の一生、侏儒の言葉と並んで晩年の代表作で、遺稿中では唯一の純粋な小説である。執筆期間は1927年3月23日から4月7日までとされる。
作品
冒頭で、「トラック買取
」と語る主人公がレエン・コオトを着た幽霊の話を耳にする。特に気にしないでいたものの、その後事あるごとにレエン・コオトが現れ、「僕」を悩ませる。後になって、このレエン・コオトは義兄西川豊が轢死したとき身につけていたことを知る。
「僕」は表面上はごく自然に振る舞っているが、奇妙な暗示と符合はレエン・コオトのみに留まらず、赤光、黄色いタクシー、黒と白、もぐらもち、翼、火事、復讐の神などが繰り返し現れる。やがて視界には半透明の歯車が回りだし、その数を増し、あとから激しい頭痛に襲われる。「僕」がそれらの不可解な暗示を恐れ、心理的な迷路のなかでさまよい、もがき苦しむ様子が淡々とした語り口で描かれている。
この小説では心象風景を巧みに連鎖させるという手法が取られており、現実の出来事はそれを生み出すきっかけに過ぎない。映像的な心象描写や連想の鎖の中で、「僕」の疲弊した病的な神経それ自体が自律的な世界をつくりあげており、それは脱毛
のようなある種の美しさをたたえている。
箱男(はこおとこ)は、1973年に新潮社から刊行された、安部公房の長編小説。現在は新潮文庫に収録されている。(ISBN 978-4101121161) 匿名性や自他関係の認識論などがテーマである。劇中に登場するフィルムの一コマの他、安部公房の写真作品8枚が挿入されている。 劇中に存在する書類の内容が文章の99パーセントを占め、書類外の記述は例外的なものだ。 書類内容によると、頭から腰までのダンボール箱をかぶった浮浪者が主人公である。箱には工夫を凝らした内から外への覗き穴など工作がなされている。主人公の他に若い看護婦とその上司の医者、麻薬中毒者、或る箱男を追い払った人物、覗き屋の中学生などが登場する。突然別人が書き始めたり、さらに脈絡不明の章があったりするが、よく読みかえせば説明はつけられるように構成されている。
『橋のない川』(はしのないかわ)は、住井すゑが著作した小説。1部から7部まで掲載・刊行され、第8部は表題のみを残し作者が死去している。明治時代後期の奈良県のある被差別部落(小森部落)が舞台となっている。
ほとんど全編を通じて部落差別の理不尽さ並びに陰湿さが書かれている。最終的には京都市・岡崎で行われた水平社宣言をもって締めとしている。
1部から7部までの粗大ゴミ
は800万部を超える。1969〜70年と1992年の二度にわたって映画化された。
あらすじ
1908年(明治41年)、大和盆地(奈良)の山村・小森。
誠太郎と孝二の幼い兄弟は、父を日露戦争で失ったが、しっかり者の祖母ぬいと心やさしい母ふでに大切に育てられる。
やがて小学校に通い始めた二人だが、そこには思いもかけぬ日々が待っていた。兄弟は小学校や路上で、ことごとにいじめられる。小森は被差別部落なのだ。
字小森
畑中孝二
もの静かで思索的な男子。監視カメラ
とみえて芯は激しい
(モデルは木村京太郎)
誠太郎
孝二の兄。大食いで勉強嫌いの腕白であるが、心優しい
ふで
二人の母親であり、日露の戦役で夫を失った寡婦。孝二は母親似である
ぬい
ふでの姑、兄弟の祖母。常に率先して働き、智慧者であり、ふでの良き相談相手
容貌や気質から誠太郎は祖母似(或いは父親似)
村上秀昭
学力と画才に恵まれ出自を秘匿して進学したが、差別の根深さに挫折する穢多寺の嫡子(モデルは西光万吉)
志村かね
差別を甘受する姿勢を採りながら差別によって夫や息子を亡くし、近隣や親戚の不平を云いつづける女
志村貞夫
孝二の終生の友。志村本家の男子
永井藤作
窮すれば畑中家の水を盗んだり自身のセミナー
を売る男。孝二が可愛がってくれた息子は失火で小森を焼いた後、周囲の蔑視に堪えきれず自害
しげみ
藤作の娘、とても気性が激しく、はちめろ(お転婆というより暴れん坊の女子)と呼ばれる。楼閣へ売られた後、かねの息子と心中する
つまり被差別部落が完璧な人格揃い、という美化の設定や描写は為されていない。
小森外の坂田村
佐山仙吉
坂田村庄屋の男子。畑中兄弟を執拗に迫害する
松崎豊太
船場商人の妾腹の息子。誠太郎の無垢フローリング
の友となる
柏木先生
孝二の大好きな教師。じつは差別を容認していた
江川先生
誠太郎の大好きな教師。差別を決して容認しなかったが夭折
杉本まちえ
坂田村旧家の生まれ。密かに彼女へ憧れていた孝二の手を夜間握った理由が、エッタの身体は夜だけ蛇のように冷たくなると大人はいうけど本当か、という残酷な興味本位であった。この場面、のちに事由が明かされる場面、孝二の動揺と苦悩、まちえの悔恨、などと作中通じたクライマックスへ繋がる。けっきょく孝二を愛する彼女は終生結婚しないまま孝二への真実を誓う
坂田村外
峰村七重
畑中兄弟の従妹で、人形のような美貌をもつ。好奇心旺盛で周りを閉口させる
孝二の優しさや知性に心酔している。後に松崎豊太を愛するが、意志を以って部落民の男と結婚した
西沢和一
ふでの甥。ごりがん(無茶な一徹者)と呼ばれるが、明るくて気分のよい男
安井家
峰村の親戚。出自を秘匿し大阪玉造で堅実な米商として成功、のち誠太郎を後継者とする。安井米店の悲喜こもごもな経験が誠太郎を強くたくましく成長させる
映画版
本作には大きく分けて二つの映画版が存在する。1969年〜1970年に今井正が監督を務めた映画(「第一部」「第二部」の2本)と、1992年に東陽一が監督を務め、ガレリア・西友共同で製作された映画である。
前者は、社会主義リアリズムの巨匠であった今井が自ら映画化を企画し、大手制作会社に断られるなどの苦労の末に完成にこぎつけた。第一部は海外で映画賞を受賞するなど高い評価を受けたが、部落民の描写などについて、当時の部落解放同盟幹部(朝田善之助ら)からクレームが出た。そして、続編として製作された第二部でもそのような批判が出ているさなか、第二部を見た部落出身の女子学生が自殺するという事件が起こり、部落解放同盟側はこの映画を「差別助長映画」として徹底した上映阻止キャンペーン(過激派学生による上映会場襲撃など)を展開することになる。この結果、本作は上映される機会が減り、ソフト化もされないという状況が長く続いた。その後、2004年には第一部・第二部ともにDVD化されており、現在では見ることは容易になっている。また、上記のキャンペーンは当時の部落解放同盟による日本共産党批判(今井は共産党員でもあった)の具にされたという見方も今日では強い。原作者である住井は、原作との違いなどを理由に批判する立場ではあったが、観るべき作品という一定の評価は与えており、観ずに「差別映画」と騒ぐ人間には映画以上に批判的であった[1]。
一方、東陽一監督版は、部落解放同盟が映画化を企図して東を監督に起用したものである(出典:灘本昌久「映画『橋のない川』上映阻止闘争は正しかったか」